ゾッとする話し~蜘蛛~
それはある雨の晩。
時刻は午後八時、その日も仕事を終えてこれから家に帰ろうという頃である。
職場から家までは電車を使い片道およそ一時間半。
電車を降りてから自宅まではほんの数分の距離であったが、この日一日中降り続いている雨は弱まる気配を見せない。
傘を差さないとだめか。
たった数分の為に傘を広げ、腕に持ち、歩き続けなければいけないストレスを感じながら、それでもこの雨では仕方がないと諦め歩き始める。
黒い傘はコンビニやバーなどが並ぶ小道を通り抜け、横断歩道を渡り、八百屋を通り過ぎる。すると徐々に家が見えてくる。
狭い砂利道に建つ家の前にたどり着き、玄関を開けようとジーンズから鍵を取り出した時であった。
玄関に向かって左側に置いてある白い植木鉢に、なにか黒くて大きな物体が張り付いているのが見えた。
それは足が長く、胴が異様に小さい。
その正体に気付いた時、僕の体は恐怖で硬直し、鼓動は瞬時に早まった。
金縛りにあったかのように体が動かない。
それでも僕は持てる力を振り絞り、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。
震える手で画面を開き、カメラアプリを立ち上げる。
いつ襲ってくるかもわからないそいつの正面に立ち、汗と雨で滑り落ちそうになるスマートフォンを握りしめながら、シャッターを押した。
シャッター音が一際大きく感じた。
それからは無我夢中で鍵を開け、逃げるように家に入り込んだ。
まだ心臓は激しく体を揺らしている。
その苦しみに耐えながらも僕はゆっくりと階段を上り、リビングまでたどり着くまでには動悸は治まりつつあった。
それから十五分ほど経っただろうか。
ようやく落ち着きを取り戻し、食事を済ませ、風呂に入ろうかと考えていた時、コンビニに行かなくてはいけない用事を思い出した。
また、玄関を通らなければいけないのか。
だがあれから一時間は経っている。
もうあいつはいないだろう。
そう思い直し、僕は再び一階に降りた。
先ほどの雨で靴下が濡れてしまい、洗濯に出してしまったので今は裸足である。
通勤用の運動靴もびしょ濡れである。
外を眺めると雨はまだ降り続いていた。
刹那の逡巡の後、僕はビーチサンダルを履き玄関を開けた。
自然と、白い植木鉢に視線が向かう。
瞬間、僕は悲鳴をあげそうになった。
まだ、いるのだ。
雨で気温が下がっているせいなのか、全く移動する気配がない。
かといって死んでいるわけでもなさそうだ。
微かだが、足が時折動く。
僕はそっと、視線を目前の砂利道に戻し、玄関左手にある傘立てから先ほど使っていた傘を引き出す。
傘はまだ濡れていた。
奴を刺激しないようにゆっくりと歩き始める。
雨は弱まりつつあるようだ。
つい一時間ほど前に通ってきた道を、僕は再び歩き始める。
足には直接雨が当たり、みるみる冷たくなっていく。
時刻は午後十時半、車の通りも家々の明かりも減り始めている。
しかし今の時代、田舎を除けば町が完全な暗闇に包まれることは稀だろう。
街灯も灯っているし、今まさに僕が向かっているコンビニだって二十四時間営業で、明かりは消えない。
そんなことを考えているうち、気づけば先ほど家に帰るときに通り過ぎたコンビニの前に辿り着いた。
傘を入口の傘立てに挿し、雨で冷やされたアスファルトの冷気と共に店に入る。
店内は空調が効いており、温かい。
天井では蛍光灯型の直管LEDが眩しいほどに明かりを放っている。
スピーカーから流れる聞き慣れた流行の洋楽が、雨音を消し去る。
店内で食事ができるイートインスペースがあるが、この時間は閉鎖されていて中に入ることは出来ない。
僕は手短に買い物を済ませ、早々に店を出ることにした。
会計を終え外に出ると、また雨が強まっていた。
きっと、あいつはまだいるだろう。
僕は覚悟を決め、あいつの待つ家に向けて歩みを進める。
傘にぶつかる雨の振動が心地いい。
雨独特の匂いを感じながら、ゆっくりと歩いているうち、僕の心は少し落ち着いた。
今ならきっと大丈夫だ。
そう確信した僕は、少しの躊躇もなく玄関に向かった。
やはり奴はそこにいた。
心は乱れない。
好奇心で、少し近づいて様子を見てみる。
すると不思議なことに気が付いた。
足が多いのである。
通常、奴の足は四対、つまり八本あることになるのだが、僕の目の前にいるこいつにはおそらく倍の足が生えている。
どういう事かともう一歩だけ奴に近づいた。
そして気づいてしまったのだ。
二匹居ることに。
どうやら二匹が重なっていたので足が倍に見えていたらしい。
ここで僕の心はぐらついた。
軽い眩暈を感じたが、倒れるわけにはいかないと足に力を入れる。
もういい、家に入ろう。
いつまでもここにいても仕方がない。
自宅の前で不審者として通報されては洒落にもならないので僕は玄関の扉に手をかける。
ここで一つの疑問が生じた。
胴体も、綺麗に重なっていたのか。
僕が見えたのは足だけで、胴体は上の奴しか見えなかった。
背筋が凍りつく。全身に鳥肌が立った。
見てはいけないと思いながら、体は奴に向き直る。
足元にあったはずの視線が徐々に奴に向かっていく。
そして、見てしまったのである。
胴体が、無かったのだ。
食われていたのだ。
下にいた奴は、胴体を食われていた。
それからの記憶はあいまいで、気が付いたら僕は湯船に浸かっていた。
握っていたはずの傘はどうしたのか。
靴はどうしたのだろう。
どうやって風呂までたどり着いた。
記憶が混濁していて覚えていない。
しかし見てしまったモノははっきりと覚えている。
あれから一夜明け、出勤の為に恐る恐る玄関を開けると、昨夜僕を苦しめたあいつはいなくなっていた。
夢だったのだろうか。
そう思いかけたその時、件の植木鉢の元には、昨夜見た奴の足が一本落ちていた。
FIN.